プロ交渉人―世界は交渉で動く

・ 私はなにごとも決してあきらめないことを信条にしている。あきらめてしまうと、ものごとは簡単に容易なほうに流されることを知っているからだ。情勢を分析して相手と話し合い、説得する。これを苦手意識で難しくとらえると、進む話も進まなくなる。こんがらがった糸も、必ずいつかはほどける。その思いこそが、安易な妥協点で終わらせない私の核となっている。
・ 決断力とは、実は勇気と慎重さの複合したものだ。
・ 交渉は生きもの、計画どおりには絶対進まないものだ。
・ 交渉の第一歩は、相手が何を考えているのかを引き出すところにある。
・ 本気で説得し、通したい案件がある場合、あるいは思いがけず話がこじれて怒らせた相手に誠心誠意謝りたい場合は、電話やメールではダメだ。すべて仔細面談。
・ それも早急に会いにいく。特効薬は「対面交渉」以外にない。
・ たとえば、会議のあとロビーで行われる非公式な仲間内の話の輪に飛び込んでいく日本人は、ほとんどいない。会議中の建前論だけでは話が進まないことはだれでも承知している。それでも日本人は遠慮がちで、なかなか独自の意見を述べようとはしない。だから、ほとんどの国際会議において日本人は「沈黙のメンバー」と認識されている。日本人は利益を共有する国や団体と協調することで、会議を無事にこなしたと錯覚しているのだ。これは単に語学力だけの問題ではない。丁々発止とやりあう習慣がないことと、話すべき論旨が確立でこいていないからだと私は見ている。
・ 外向的な性格は、ネットワークを築くための必要条件の一つだ。そこに飛び込まないと影響力を行使できないままで終わってしまうことを、国際会議に参加する日本人がどれほど理解しているのだろうか。閉ざされた島国の伝統からか、我々日本人は自分たちだけで固まりがちであるし、外部との交渉は下手というイメージがぬぐえない。実行できるかどうかは別にしても、少しでも努力しない限り、いつまで経っても日本人は、核心の議論からは蚊帳の外に取り残されたままだ。
・ 日本語には「服芸」とか「眼で語る」といった言い回しがあるように、言葉で表現して仲間を外に広げるよりは、内々だけで分かり合おうとする傾向がある。しかし、その土地、風土だけで培われた情緒は、残念ながら世界では通用しない。
・ 交渉の話を進めるのに不適当な時間、適当な時間というものがある。こういうことは日本人にとっては案外盲点かもしれない。たとえば日本人同士で話を進めているときは、夕方5時を過ぎてもなんの問題もない。問題ないどころか「夕食でもご一緒しながら、少し話しをまとめておきますか」となる。そのあとに帰宅。ノープロブレムだ。ある時間以降はプライベート・タイム、あるいは家族と楽しむための時間、という観念が日本人にはない。これがアメリカ人やヨーロッパ人の場合、午後4時半、遅くても4時45分というのがオフィシャルな終了時間になる。なにをやるにしても、そこがデッドラインだ。日本の男性には、こういう時間のメリハリとういものがほとんどないようだ。第1、妻が家で待っているという事実が念頭にない。
・ 人生の座右の銘というと大げさかもしれないが、私が最も好きな言葉に「*実るほど頭を垂れる稲穂かな」がある。本来人間とは、そういうものではないだろうか。この世の中がそういう人間の複合体なら、もっと平穏で上質な暮らしぶりになると思う。
* 稲の穂は実が入ると重くなって垂れ下がってくることから、学問や徳行が深まるほど、謙虚になることのたとえ

・ 「*急いてはことを仕損じる」ということわざは、21世紀のいまも生きている。ある案件で交渉がうまくいき、とんとん拍子に決着しそうな状況になった。しかしこういうときにも、結論を急がない。これが鉄則だ。
*物事は慌てて行うと失敗しがちだということ。急ぐときほど慎重に事に当たれということ。
・ 頭で考え込むより、まずは行動ありき、まずは口に出して表現してみる、それが私の基本でもある。何を考えているのか分からないと評されがちな日本人だが、それは語学力の問題では決してない。自己表現することからすべてが始まるのは、会社でも課程でも同じことだと思っている。